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2010年3月

2010年3月16日 (火)

【エクスカージョン 3】 現代イギリス人のメンタリティー、あるいはEbbsfleetの謎

 ロンドン大学で学ぶために2年余りのあいだ滞在したイギリス。論文作成が目的であったため、私にとってその間の毎日は緊張の連続であった。そんななか、ほんの数日だけ机を離れて気分転換をできる日々もあった。それは専攻する英語史ゆかりの土地を巡ったときのことである。

 いまから思えば、ケント州の南東端に位置するラムスゲート(Ramsgate)という小さな港町は私と運命の絆(fatalis catena)で結ばれていたのかもしれない。はじめてイギリスを訪ねたのは17年前のDiana妃の婚礼当日。2週間のあいだラムスゲートのサネット(Thanet)地区に滞在した。しかし当時高校生だった私は、まさにこの地がイギリス発祥の地であるなどとは思いも寄らなかった。

 2度目のラムスゲート訪問が実現したのは同じくケント州のメイドストーン(Maidstone)にある小さな宿からのドライブの途上で、カンタベリー(Canterbury)から延びるB級道路をサンドウィッチ(Sandwich)の海岸へ向かい、まさに車がサネットに入ったときのこと。予期せぬ形で私の興奮は最高潮へと達した。なぜならばロード・マップが示していたのはそこがエッブスフリート(Ebbsfleet)という地点で、このあたりには史跡が存在するというからだ。

 地図には書ききれない細い農道を探し回ったあげく、ついに発見したのは畑の真ん中に建つケルト風の十字架であった。パネルの解説によれば、これはSt Augustine’s Cross(写真右、筆者撮影)と呼ばれ、Cross_2

597年の聖アウグスティヌス(St Augustine)のイギリス上陸を記念して19世紀に建てられたものだという。しかし私はどこか腑に落ちない気持ちにおそわれた。エッブスフリートというのはアングロ・サクソン年代記の449年の章にYpwines fleotと記されている地名で、この地にイギリス肇国の祖ヘンギスト(Hengist)とホルサ(Horsa)が上陸したと記録されている。17世紀のゲルマン狂徒リチャード・ヴァーステガン(R. Verstegan)の書にあるヘンギストとホルサ上陸の図(Richard Verstegan, A Restitution of Decayed Intelligence (Antwerp: Robert Burney, 1605)より)は当時の想像の産物であるとしても、エッブスフリートこそアングロ・サクソン人の国、イギリス発祥の地なのである。Hengist_horsa

 この国にキリスト教を布教した聖アウグスティヌスを記念するのはもちろん意味あることである。しかし現代のイギリス人は、それより100年以上も前に祖先がはじめてこの地に上陸したことをどうして記さないのであろうか。

 このあたりの彼らのメンタリティーは現地で古英語研究をするうちに徐々にわかってきたような気がする。普通のイギリス人にとっての国史は、かの国がキリスト教国になったときから始まるのだ。なるほど年代記はキリスト教が少なくとも王族のあいだに広まったとされる7世紀末以前のことも伝えてくれる。しかし異教の時代などはかぎりなくフィクションに近い物語なのかもしれない。異教時代に関心を抱くのは、考古学者か文献学者のほかにおらず、その文献学者もキリスト教文学としての古英語文学を研究する大多数の学者を除いたほんのわずかな研究者のみである。アングロ・サクソン時代の王で一般の記憶に残っているのは民家でパンを真っ黒焦げにさせたアルフレッド大王(Alfred the Great)のみであろう。

 続いて立ち寄ったバトル(Battle)の町は1066年にアングロ・サクソン王朝最後の王ハロルド(Harold)がウィリアム征服王(William the Conqueror)率いるノルマン軍の矢に目を射られた末、剣で斬殺された町。一般にはヘイスティングス(Hastings)の戦いと呼ばれているが、実際に戦が繰り広げられたのはヘイスティングスよりも10キロほど内陸に入ったバトルの町。のちにウィリアム征服王が建立した僧院の廃墟の向こうには強者どもが散っていった野原が広がる。Battle (写真、Battle Abbeyの裏手アングロ・サクソン軍とノルマン軍の合戦の場(筆者撮影))

ここではかの有名なバイユー・タペストリーに描かれたハロルドの最期の場面がTシャツなどに姿を変えてたくさん売られている。フランスからの征服者に国王が殺され、アングロ・サクソンの王朝が途絶えたというのに、いまのイギリス人はどこか能天気な気がしてならない。(写真、Battle Abbeyにあるハロルド王最期の地を示す碑(筆者撮影)Harold

 アングロ・サクソンの血統には隔絶感を抱き、ゲルマンの異教には無関心なイギリス人。これが「英語の本場」イギリスで古英語の研究に携わった私の印象である。

(本文はサウンディングズ英語英文学会編、『サウンディングズ・ニューズレター』No. 40, Nov. 30, 1999に掲載されたものにタイトルを改変し、若干の修正を施したたものである。)

2010年3月 4日 (木)

【語源エッセイ 2】 like、lie、lay、logの語源

 シルケボー警察の捜査官はその電話を切ったとき、それは単純な誘拐殺人事件ではないと悟った。とはいえ数日前にコペンハーゲンから出てきた少年がユトランド半島で姿を消していたのは事実である。

 ゲルマンの神、トールの森を意味するトールン(Tollund)の集落に住むヴィッゴとエミルのヘイゴール兄弟、それからヴィッゴの妻のグレーテと彼女の連れ子のヨンはその週末も一家総出で泥炭を切り出しに家から数キロ先の沼地へやってきた。泥炭は乾燥させると囲炉裏での使用に最適な燃料だった。とろとろとゆっくり燃え続けるからだ。そしてなによりも、山のないデンマークでは地面を切り出すだけで手に入るこの燃料は重宝したのだ。むろんずっしり重い泥をレンガ状に切り、それを荷車に乗せるのはそれなりに重労働だったが。

 最初に泥のなかの異物に気づいたのはグレーテで、よく見てみると埋められてまだ日がたっていない人間の頭部がさながら穏やかに眠っているように目を閉じていたのである。195056日のことであった。

 ヘイゴール一家はなにを逡巡したのか、このことをすぐに通報しなかった。そして二日後になってようやくシルケボー警察に電話したのである。捜査官が現場にやってきたとき、たしかに少年は地表から約2メートル半のところに横たわっていた。しかし捜査官が確認したかったのは周囲の状況であった。もしもこの少年がここに埋められたとすれば、周囲に穴を掘った形跡があるはずだ。しかしあたり一帯にはヘイゴール一家が泥炭を整然と直方体に切り出していった跡のほかには地面の乱れはなにひとつなかった。捜査官はそこで思った。これはやはり自分たちの管轄ではなく、念のために同行してもらった教授にバトンタッチすべきであると。

 シルケボー博物館のグロッブ教授は直後の調査により、この遺体は約2000年前のもので、おそらく生け贄として埋められたのであろうと予想した。この湿地遺体はその後、ヘイゴール一家が暮らしていた集落の名前をとって、トールンマンと呼ばれている。また、湿地遺体のことを英語ではmoormanあるはbog body、ドイツ語ではMoorleicheという。

Moorleiche

* * *

 「好む」を意味するlikeの語源は、トールンマンの歴史と同様に不思議なものです。likeの使い方でやっかいなことは、いまでこそこの単語には人間を主語に立てることができますが、昔はそれができないということした。「物がひとの気に入る」という言い方をしたのです。これは同じく「気に入る」を表すフランス語plaire(英語のpleaseに相当する)やドイツ語のgefallenの使い方と同じです。

 しかしこのやっかいなところがむしろ語源を考えるヒントを与えてくれます。likeは古英語ではlicianと綴りますが、これには名詞形があって、licは「体」、またその形容詞形もlicで「~と同じ体をもった」をいう意味です。これが現代英語の形容詞like「~に似ている、~と同じ」になります。副詞や形容詞を作る語尾の-lylicが縮まったものです。friendlyは語源的にはfriend-likeで「友達のような」という意味になります。ドイツ語では現在でも「体」を意味することばにLeicheがありますが、これは古英語のlicにあたります。

 では、どうして「体」と「好む」は関係があるのでしょうか。まず、形容詞の「~に似ている」から考えるとわかりやすいと思います。日本語に「体裁」ということばがありますが、「ABに似ている」ということは、「ABの体裁をしている」とほぼ同じことです。あるいは「自然体」とか「死に体」の「体」のことです。これを英語では“A is like B”というのです。この形容詞のlikeはドイツ語ではgleichに相当します。gleichとはge-leichのことです。gleichは副詞で「ただちに」という意味ももっていますが、これはAの動作とBの動作の時間が「同じ」ことを指します。

 次に動詞の「好む」ですが、「ABに似ている」ということは、「ABに合っている」、つまり「BAの気に入る」ということになります。これは服を選ぶときを想像すればもっともわかりやすいと思います。「この服は私の体にぴったり合う」から「私はこの服を気に入る」というふうになります。動詞のlikeの基本的な意味はあくまでも「~の体に合う」ですから自ずと主語はその人ではなくて物になってしまうのです。「物がその人(の体)にぴったり合う」ということは「その人はそのものを気に入る」ということです。

 辞書を見ると動詞のlikeと形容詞のlikeは別々の見出し語になっていて、しかも一見したところ両者の意味は違いすぎているので、お互いに関係があるとは思えないのですが、語源を調べるとじつは両者は同じことばの動詞形と形容詞形であることがわかります。

 現代の英語では “You like this suit.”のように人間を主語にしますが、もとは “This suit likes you.”といいました。このように主語と目的語がひっくり返ってしまったひとつの原因としては、英語の二人称代名詞は主格と目的格が同じ形のyouであることがあげられます。

 さて、likeの語源をさらにたどると印欧祖語の語根*lik-「体」に行き着きます。ここで面白いのはドイツ語のLeiche「体」は同じ体でも「死体」を意味します。生きているひとの「体」はKörperといいます。それで、ヨーロッパ北西部を中心にこれまで1000体ばかり発見されている湿地遺体はドイツ語ではMoorleicheといいます。トールンマンのみならず遺体は横たわっているものですが、「横たわる」を意味するlieや他動詞形のlayはそれぞれ古英語ではlicganlecganといい、印欧祖語の*legh-「横たわる」にさかのぼります。ここで予想されるのは*lik-「体」も*legh-も元来は同じ語根で、子音のlk/gの組み合わせが「横たわる」さまを意味するのではないかということです。「丸太」のlogは切り倒された木のことですが、これも同じ語源であろうと思われます。すべて「ごろごろ」横たわるものです。

 トールンマンはその後の詳しい調査で、泥炭層は有機物を分解するバクテリアが増殖しない環境であること、紀元前400年ぐらいの鉄器時代初期の人物で身長約161センチ、年齢は40才ぐらいであること、最後に食べたものは穀類のお粥であること、首を吊って殺されたであろうことなどがわかっています。しかしMoorleicheということばからlikelielaylogなどの語源もリアルにわかるヒントを与えてくれるのです。

2010年3月 2日 (火)

【エクスカージョン 2】 彼らは何故にこの島へ、あるいは古くて新しいアイスランド

 それはオークニー諸島だったかもしれないしシェトランド諸島だったかもしれない。けれど、少なくともグリーンランドが発見されるまでは。アイスランドもUltima Thuleのひとつであったことはまちがいない。

 アイスランドへはいまならオスロから約3時間の空の旅。英語の語源をたどっているとしばしば出くわす古ノルド語はかつてヴァイキングが話していたことばである。ひとことでヴァイキングといっても、この島へやってきたのはノルウェー人だけでなくスコットランド人なども含まれていたようだ。それにしても彼らは何故にスカンジナヴィアから北の果てのアイスランドまで移動したのか。イベリア半島から地中海へ入れば雲ひとつない空の下、紺碧の海が広がるのに、彼らは何故にこの島へやってきたのか。ナポリやシチリアに住みついた同胞もいるというのに。それにしてもなぜ北極圏にほど近い無人島へ。

 分厚い雲を突き抜けて飛行機が着陸態勢に入ったとき、窓の下を見て我が目を疑った。こんな土地があるものか。B737ではウサギが餅つくあの星へ行けるはずもないのはわかっていたけれど、それでも思わずにはいられない、ここは月面ではないのか。

Iceland1_2 

 ケフラヴィク空港からレイキャヴィクまでの道のりは、あたり一面冷えて固まった黒い溶岩とその表面をかすかに覆うコケの緑。山といっても巨大な土塊で、ほとんど樹木はない。そのような大地と鉛色の空をつなぐかのように、ところどころ地面から煙が立ち上る。古ノルド語の詩に赤く燃えるマグマを思わせる行があったのを覚えている。あれは民族の遠い記憶ではない。あれは足元のリアリティーなのだ。レイキャヴィクという町の名もReykja-はドイツ語のRauchにあたるから「煙立つ入り江」という意味である。

Iceland2 

 その地理的要因もあって、この島がキリスト教に改宗するのは遅く、10世紀の末である。それまでの間、ゲルマンの異教が根付いていたはずである。火山から吹き出すマグマ、水蒸気と熱湯、巨大な滝、地面の割れ目、この島ほど神々の存在をリアルに感じされるところもなかったであろう。

 この島は、地質年齢でいえばまだ若い。若さの秘密は地面の下。ちょうどこの島の地下深くでユーラシア大陸プレートと北米大陸プレートが生成され、上昇し、東西に分かれゆくという。おかげでこの島は東西方向に年間で約1センチずつ広がっているのである。プレートの境界が断層となって地表に現れ出ているところは世界でたった三カ所だそうで、そのひとつがアイスランドを真二つに分けるgjár、すなわちgapのことである。とにかくこの島では今なお大地が生成されている。大地が若い所以である。

Iceland4  小川が流れる絵のように美しい谷間に巨大な断層が壁をなしている。この壁の前で話すと声が反響して遠くまで伝わることを10世紀初めの人々は知っていた。ここが民会(þing)発祥の地、シングヴェルリル(Þingvellir, “thing valley”)である。おそらく夏の間の一時期に、島の津々浦々から人々が集まり、各種案件(þing)を相談していったのであろう。レイキャヴィクにある国会はいまもAlþing (the whole assembly)という。

 もうひとつ英語に入っていることばにふれておこう。アイスランドには間欠泉も多いが、そのうちのひとつGeysirが一般名詞として英語に入ったのがgeyserである。アイスランド語から入った数少ないことばである。

Iceland3 

 若い大地の上に残っていることばは古い。なぜならば、ヴァイキングがこの島に移住しはじめたのは9世紀末からであるが、それ以来この島が孤島であるがゆえに他国との接触が少なく、外的要因による言語変化をあまり被っていないという。したがって、ルーン文字に由来するthorn (þ)ash (æ)の使用に象徴されるように、書かれたアイスランド語を見ていると、古英語に目が慣れた人間には少しは類推がきくところが面白い。(さらに面白かったのは、アイスランドの帰途、コペンハーゲンに立ち寄ったところ、アイスランド語の印象が残る目にはデンマーク語はかぎりなく英語に近く見えた。)

 それにしてもゲルマン語の純度が高いアイスランド語とロマンス系の語彙を大量に採り入れた英語のたどった道のりは対照的であるが、なにかただならぬ因縁をも感じさせる。英語をクレオール化してゲルマン的な特徴を薄めてしまったのはアルフレッド大王たちを悩ませたデーン人であったし、その後ノルマンディーからやってきた征服者はフランス化したヴァイキングであった。彼らがもたらしたおびただしい数のフランス語のおかげで本来語が駆逐されてしまった。その一方で、英語をゲルマン語らしくなくさせてしまったヴァイキングのことばはいまもなおアイスランドに1000年前とほとんど同じ姿で残っている。

 レイキャヴィクの町はどこかヨーロッパの町とはちがう。石畳に覆われた旧市街がないのである。ほとんどの建物は戦後になってから建築資材を海外から運び入れて建てたものである。どちらかといえばレイキャヴィクはヨーロッパの町というよりはアメリカの田舎町を思わせる。そんな町に今日も群れなして歩くのはアメリカ人。首からパスポート入れを提げたおばあちゃんたちが陽気に大声でしゃべりながら先祖の足跡をたどっている。ここはアメリカにもっとも近いヨーロッパなのだ。

 ヴァイキングはさらに西進した。北西300キロ先のグリーンランドへ到達したとき、アイスランドはUltima ThuleからThuleへと変わった。1000年頃にはグリーンランドを経由してカナダのニュー・ファンドランドあたりまで達していたという。コロンブスが新大陸を「発見」するよりも500年も前のこと。

 ヴァイキングは何故に移動を繰り返すのか。魂の衝動に突き動かされたのであろうか。この古くて新しい島で自然に圧倒されながら、そんなことを考える4日間であった。

 月面へ着陸したニール・アームストロングは先祖にドイツ人とスコットランド人、そしてアイルランド人の血が混ざっているということを、知ったのはドイツへ戻ってからのことであった。

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